夕陽が眩しいグラウンド脇の水道口。
逆光が大好きとかわけの分からない事を言うそいつは、やっぱり夕焼けを背景にしてさらり、
と言った。


「俺と付き合おうか、


だからもさらっと笑って


「冗談でしょ」


流した。









ESCAPE








机の上のプリント類を片付けて、さあ帰ろう、と鞄を取り上げたら思い出した。


「しまった、いぬいんに返すの忘れてたよ…」


味も素っ気もないキャンパスノートを取り出す。
生徒会室の窓から顔を出してテニスコートのほうを窺えば、丁度練習は終った頃合らしい。
今ならまだ間に合うと判断して、は鞄を引っ掴んだ。








やっぱ運動不足だなぁ。
出来る限りの近道をしたにも拘らず、テニスコートに着く頃にはすっかり息が上がってしまっ
ていた。ぜいぜいと鳴る喉を宥めるのに必死になっていると、コートから馴染みの声が掛かっ
た。


「あれ、さん?」
「あーほんとだ。じゃん。どしたの、んなに髪振り乱して」


同じクラスの不二と菊丸だ。


「あー……ちょっと、いぬいんに、用…が、あってね……」
「いぬいん?」


首を傾げたのは、後から出てきた1年生の生意気エース。
しかし誰もそれについては説明しない。


「乾なら、スミレちゃんに用があってさっき職員室に行ったよ。すぐ帰ってくると思うけど、
部室で待ってる?」
「いや、だったらいいや。数学のノート、返すの、忘れててさ。渡してもらえる、かな?」


徐々に呼吸が整ってきたが鞄からノートを取り出すと、不二はいつもながらにこやかに
「わかった」とそれを受け取った。


「ありがと」
さん今から帰り?」
「ん? そうだよ。今度の生徒総会用のプログラム纏めてたらすっかり遅くなっちゃった」
「今は手塚がいないから、大変だね。全部さんが生徒会の仕事被ってるんでしょ?」
「その為の副会長だもん。当然だよ」
「もう少し待っててくれたら送ってくよ?」
「いいよ、私ん家(ち)はそんなに遠くないし、大丈夫。それに不二は方向逆じゃん」
「うん、だから僕じゃなくて英二が」
「俺かよ!」
「あはははっ」


見事な3−6コンビネーションに声を上げて笑ったあと、本気で送るといった菊丸の申し出を
丁寧に断って、はコートに背を向けた。
沈みかけた夕陽に照らされて、の陰が長く伸びていた。




乾が部室に戻ってきたのはその10分後。


「おかえり、乾」


これは僕からのプレゼントだよ、と渡されたのは確かに自分のノートで。


「なんだ、が来てたのか」
「返すの忘れてたからって慌てて走ってきてたよ。僕にノート預けて帰っちゃったけどね」
「そうか。それは残念」


然程残念そうでもなく肩を竦める乾に、不二は何が面白いのかクスクスと笑う。


「乾先輩って、いぬいんって呼ばれてるんスね」
「……あいつだけな」


だが、リョーマがそういった途端、乾は打って変わってあからさまな溜息を吐いた。
乾以外の3年生は全員訳知り顔に苦笑する。


「なんスか?」
「『いぬいん』ってあだ名はがつけたんだよん♪」
「それが?」


あだ名で呼ばれることなんて特に珍しい事ではない。
なのにこの先輩たちの反応はどういうことなんだろう?
リョーマがさらに首を傾げるのを見かねたのか、それとも単に面白がっているだけなのか(多
分に後者の可能性が高い)、菊丸が表情を輝かせて説明役を買って出た。


「ちっちっち、おチビは分かってないにゃ〜。がつけたあだ名はこれがフルネームじゃ
にゃいのだ!」
「フルネームの使い方が間違ってるッスよ」
「聞いて驚け! その名も『ちみっこいぬいん』だ!!」


リョーマの突っ込みは聞き流し、菊丸は高々と宣言する。


「「「……ちみっこ?」」」


一年生のみならず、二年生までもが一斉に乾に視線を集めた。
それも当然。
乾の身長は184cm。お世辞にも小さいとはいえない。
どちらかというとその妙な存在感でただでさえ大きい体躯がさらに大きく見える程だ。


「1年の時に付けられたあだ名なんだよ。あの頃は俺よりの方が大きかったんだ」


未だにあの頃のイメージを払拭できていないんだ。
皆の注目を浴びても何ら動じることなく、乾は微かに苦く笑んだ。







青学男子テニス部が誇る「データマン」乾貞治とは1年の時同じクラスだった。
最初に座った席が近かった事もあって何だかんだと話してるうちに妙に仲良くなり、2・3年
ではクラスが離れたにも拘らず、未だにその頃の付き合いが続いている。



「あ、いぬいん」
「これ、頼む」


珍しく教室へを訪ねてきた乾に、どうしたのかと問うより先に乾が示したのは部費の追
加申請用紙。


「ああ、はいはい預かっときます。でも、申請が通るかどうかは責任もてないからね」
「分かってるよ。でも、通る確立は78.5%だ」
「ま、私も通るとは思うよ」
が後押ししてくれれば確率は88.3%まで上がるんだけどな」
「エコ贔屓はしません。私は常に中立です」
「残念だな」
「思ってもいないくせに。口だけで言っても真実味ないよ」
「本心なのに。今のは傷付いた」
「嘘ばっかり」
「君たち本当に仲が良いよね」


二人の会話に割って入ってきたのは言わずもがなの不二。
相変わらずのクスクス笑いと共に、何時の間にかの傍らに立っていた。
一人が椅子に座っているので、必然的に二人を見上げる形になってちょっと首が痛かっ
た。乾は背が高いから尚更だ。


「誤解を招く言い方は止めておくれ、お不二さん。いぬいんFANに睨まれるではないか」
さん、その喋り方変だよ」
「わざと変にしてるの」
「でも本当に仲良いじゃない。この際くっついちゃえば?」


が首を押さえたのに気付いたのだろう、不二は手近の椅子に勝手に腰を下ろした。
乾もの前の机に軽く身体を預ける。


「怖いこと言わないでってばさ。それに、この際ってどんな際よ」


わざとらしく両腕で我が身を抱き締めて身体を震わせつつも突っ込みを忘れないと、


「残念ながら、それは無理だよ、不二」


やっぱり動じない乾。


「どうして?」


二人の反応を楽しげに眺める不二は何か目的でもあるのか、無邪気なフリをして首を傾げた。

当然、騙されるような乾ではない。
だがしかし、耳目を気にする乾でもなかった。


「少し前に俺はに振られてしまったんだ」
「へえ?」


途端に煌いた不二の視線の先で、は肩を竦めて見せるだけだった。







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