誰かの話し声が聞こえる。
カチャカチャ、何か硬いものが軽くぶつかるような音も。
布が擦れるような音がして、また人の話し声がして、それから体が浮いてるよう
な、変な感じがした。
体の左側がやけに暖かい。

全部が全部、なんだかすごく煩かった。
煩わしくて、腹が立って。
一言文句を言ってやろうと思ったら、急に視界が開けた。










La Dolce Vita
〜天国か地獄か?!〜










「うわっ!」


目の前に、人の顔があって、その人は大きな目をさらに大きく開いて私を見下ろし
ていた。
ああ、目をつぶっていたのかとそこで気がついた。


「ゆーし! こいつ目、開けた!」
「ホンマや、やっと意識戻ったんやな、良かったわ」
「うっわー! 俺、決定的瞬間見ちゃったよ!! スゲー!!!」


こころもちぼやけた視界にもう一人、眼鏡を掛けた子が現れる。
最初の子もこの子も、見覚えがない。
誰だ。
……というか、煩い。


「……っ…」


苦情を言おうと口を開いた……否、開こうとしたのに、思うように顎が動いてくれ
なかった。だるいような、痛いような感覚がして、動作が鈍い。舌もうまく動いて
くれないらしかったし、喉も掠れててまともな声どころか声すら出なかった。

なに、これ。
なんで?

わけが解らなくて慌てて起き上がろうとすれば、体中が軋みをあげた。


「っ!!!」


どこと言わず全身あらゆる場所に激痛を感じて目じりに涙が滲んだほど。なのに体
はちっとも動いていなかったらしくて布団に倒れこむ感触すらなかった。


「ああ、無理せんとき。今お医者さん呼んできたるからな。……岳人」
「わかった! ついでに跡部達にも連絡いれてくる!」
「頼むわ」


医者?
なんで?
どうして体が動かないの? 声も出ないの?
ここはどこ?
この子達は一体誰なの?
疑問は山のように沸いて出てくるのに自由になるのは目だけ。
それもぐるぐるとあちこちにさ迷わせていたらすぐに鈍い痛みがやってきた。
耳は正常に聞こえてる。
鼻は? ……わからない。

見たところ、此処はどこかの病院の一室らしかった。
それも個室で、なかなか広い。


「気付いたばかりで焦るんもわかるけど、少し落ち着き。今見て分かったやろうけ
ど、此処は病院や。自分、交通事故に遭ぅて運び込まれたんやで」


覚えとる?
優しく頭を撫でられながら訊かれて、思い出した。
アノ時の光、音、衝撃。
断片でしか残っていないけれど。

交通事故、あれが。

轢かれたのか、私は。
……それで体が動かないの? まさかずっと?! 声も?!


「心配いらへんよ、医者も脊髄やら神経に傷は付いてへんて言うとったから、しば
らくしたら声も体も普通に動くようになるやろ。……まぁ、多少リハビリはせなあ
かんらしいけど、それはしゃあないやん?」


「なんせ骨折やら裂傷やらで血まみれやったんやで」と苦笑する彼は、つまり事故
に遭った直後の私を見ているのだろう。
たまたま現場に行き会ったのか、それとも事故の当事者なのか。
どちらにせよ、こんなにもにこやかに馴れ馴れしくされる覚えはないのだけれど、
それともイマドキの高校生は誰にでもこんな態度なのか。
彼らの態度が不快なわけではないけれど不可解ではあって、内心で首を傾げている
間にパタパタという急ぎ気味の足音が複数聞こえてきた。……ようやくのお医者様
のご登場だった。









一通りの検査を終えて初めて、私は1ヶ月以上もの間自分が昏睡状態に陥っていたことを知ら
された。


「ろ、6週間と2日って……ありえない……」


全部で5箇所ある骨折はその大半がその間に回復しているらしい。
この全身の痛みは、骨折や怪我のせいと言うよりも長期に亘って動かさないでいた
ためにすっかり落ちてしまった筋肉と、同じ理由から強張ってしまった関節が原因
だろうとも言われた。リハビリには少しばかり時間がかかるだろうとも。
ちなみに喉は単に渇いていただけで、少しお茶を飲ませてもらったら多少掠れては
いるけれどちゃんと喋れるようになった。

それらの言葉の意味が徐々に脳に浸透してくると、今度は違う心配が浮かんできた。
会社と、家族だ。
私は親と同居している。誰が連絡を入れてくれたのかと黒髪の子に訊ねると、なん
ともいえない妙な顔をされて返事を濁された。


「…どういうこと?」


本当は首根っこ引っつかんで問い詰めたいところだけれど、まだそこまで声が出な
いし体力もない。ベッドの中からじっと睨むしか出来ないのがもどかしい。


「自分……覚えてないんか」
「え?」


話の脈絡が繋がってない、と抗議することは出来なかった。
眼鏡の奥の瞳は真剣で、私はそれに気圧されたのだ。自分の半分以下の年齢の子供
に、とは不思議と思わなかったのは彼が大人びているからなのか、私が年齢の割に
は成長できていないせいなのか。
己の未熟さに軽く嫌気がさすが、落ち込んでる場合でもないのでじっと少年の顔を
見返していると、ふと、彼の顔に見覚えがあることに気がついた。それだけではな
くて、声にも覚えがある。
何か……よく知っているような。顔よりもむしろ声に馴染みがあるように思えた。

誰……?

確かに私は彼を知っている。
なのに、思い出せない。
彼の顔に見覚えはない。
それは確かだ。
なのに記憶のどこかで知っている。
それも確かなことで。
一体どういうことだろう?


「……あんな、自分もしかして」


コン、コン。
少年が言いさした言葉は小さなノック音に遮られてしまった。
小さく舌打ちをした少年が、それでも「どちらさん?」なんて言いながら引き戸を
開けてくれた。



「失礼します」


引き戸が開く音に続いて聞こえてきたのは、やけに低くて渋くて落ち着いた、とて
もとても私好みの声だった。


「忍足、さんが目を覚まされたと聞いてきたのだが」
「あ、…ええ、そうです。体はまだ動かせんのですけど、話は出来ます」


少年が答える。
…………って、ちょっと待って。

今、オシタリって言った?


「そうか」


この声。
低くて渋くて、落ち着いてて、私好み、の……小杉さんの、声は。

まさか。

ベッドサイドのパイプ椅子を引き出す手が見えた。
がしりとしていて、一目で上質とわかる生地のスーツを纏っている。

まさか。

きしりと椅子を軋らせて、男の人が腰を下ろした。姿勢がいい。
オールバックにした髪には一筋の乱れもなく、首元には深いボルドー色のスカーフ
が巻かれている。


「初めましてさん。氷帝学園教師、榊太郎です」


ああ、誰か。
誰か嘘だと言って。






彼氏と別れたばかりで、会社と自宅の往復しかしていなくてヒマだった私に「アン
タの好きそうなな声優さんがいっぱい出てるわよ」そう言って友人が貸してくれた
のが『テニスの王子様』の恋愛シミュレーションゲームだった。
選抜チームの強化合宿を舞台に、テニスのミニゲームをクリアしつつ親睦を深める
という単純なシステムは原作を知らない私でも十分に楽しめたのだけれど、中でも
嬉しかったのが小杉さんが声を当てているキャラが隠しキャラとして攻略できたこ
とだった。だって私は中学生の頃から小杉さんの声のファンだったから。

その、小杉さんキャラである『榊監督』が今、目の前にいる。


「この度は私共の手配したバスが大変申し訳ないことを……」


確かに、あの絵が実写になったらこうなるだろうと思われる、端正な顔立ちをして
小杉さんの声で喋っている。考えたらあの少年も『忍足』の顔と声で喋っていた。

なんだ、これは。

一体どうなっているの?


「ここは、何処ですか…?」


誰か説明して欲しい。
この、ありえない状況を。世界を。

私の混乱ぶりを取り違えたのだろう、『榊監督』は少しだけ驚いた表情をして『忍
足』クンに此処が病院だとか怪我の説明はしたのかだとか確認を取っていた。『忍
足』クンはそれに頷いて、さっきまでの医者の説明を簡単に端折って繰り返した。
それらのやり取りが遠くに聞こえる。
すぐ傍で話しているはずなのに。

  否、聞こえないほうがいい。

だって、ありえない。

彼らが本当に『榊監督』と『忍足』だとしたら、ここは『テニスの王子様』の世界
ということになってしまう。
じゃあ、私のいた世界は何処に行ったの?
どうして私だけがこの世界に飛ばされたの?
会社は?
友達は?
家族は?
この世界に本来存在するはずのない、私は?


「……私は、どうなってしまうの……?」


家族も友達も仕事もなく、一人ぼっちで放り出されてしまった。
しかも全身傷だらけで、腕一本満足に動かせない。


「どうしたら、いいの…」


怖いよ。

怖い。


誰もいない。
何もない。
帰るべき場所すら、私には……。


「大丈夫だ」


不意に頭に重みを感じた。
重いけど、不快じゃない、温かみのある重さ。


「何も心配しなくて良い。君の事は私が預かったのだから、決して君の悪いように
はしない」


それがゆっくりと移動して頭を撫でる。
落ち着き払った声が耳に心地良い。


「今はゆっくり休みなさい。体を治すことだけを考えるんだ。いいね?」
「……出来ません」


それはとても強い誘惑だったけれど、此処で頷いて目を瞑る訳にはいかなかい。
怯えて、泣いて、おとなしく眠りに付くことが出来るならそれこそ漫画のヒロイン
を気取れたのだろうけれど、生憎と短くない年月生き馬の目を抜く資本主義社会で
生き抜いてきた精神がそうすることを拒むのだ。

だけどお陰で、少し気持ちが落ち着いた。


「起こして、もらえますか?」


ようやく働きだした私の頭は今やるべきことを弾き出す。
とにかく情報を集めなくては。
それから、集めたその情報を検証して、分析して、今後の方針を決定する、その為
に。


「姫さん、無茶しなや」
「大丈夫だから。お願い、起こして」


『忍足』クンに頼むのは少し気が引けたけれど、まさか『榊監督』に頼むわけにも
いかない。忍足クンはため息一つと引き換えに、ふかふかの枕2つを私の背中に押
し込んでそうっと抱き起こしてくれた。


「…っ!」
「ああ、ほら、やから言うたのに」
「っ……大丈夫」


どうせ、明日からリハビリが始まるのだからと言い張れば、忍足クンはまたもや呆
れ顔でため息を零した。その口がこっそりと「強情っぱり」と動く。その通りだ。

その強情のお陰で目線が近くなった榊サンの顔を正面から見つめる。
人の顔を正面から見るのは苦手だけど、今だけは負けるわけにはいかない。


「家に、電話させてください。それから、会社にも」


そうすれば、コレが手の込んだ性質の悪い悪戯だって証明できるはず。


そうよ。
漫画の世界に飛ばされる、なんてあるはずがないのだから。







  

naxt.

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Dolce Vita-01