「でもさ、どうやってアイツらの目を掠めてバイトに行くつもりなの?」
敵は既にテニス部総勢200人を動員しての監視体制を敷いてるわよ?
「敵ってあのねちゃん……まぁ、いいけど」
「ね、どうやって抜け出す気? っていうか、そもそも「バイトに行く」なんて公
言しなければ良かったのに」
「だって、黙って行くわけにもいかないでしょ? マネの仕事もあるし」
「ま、ね。……どんだけの大騒ぎになるか、想像もつかないわ」
そう言いつつ顔色を青ざめさせたは、しっかりと跡部とその一党が引き起こ
すであろう騒動を想像できてしまったのだろう。
は慰めるように彼女の頭を軽く撫でて、「だからね」言葉を繋いだ。
よく“苦虫を噛み潰したような”というが、綺麗な顔立ちの人間がそれをすると本
当に歪むものなんだな。は数分前に目の前に並んだ顔を思い出してクスリと
笑った。
「どうかしたかね?」
耳聡くそれを聞きつけたらしい榊がちらりと視線を向けたのに気付いて、は
慌てて表情を引き締めた。流石にこの人の前でだらしなく緩んだ顔を曝したいとは
思えないからだ。
「いえ、なんでも。……それより、ありがとうございます、わざわざ車で送って頂
いて」
そう、の採った方策は実にシンプル且つ合理的。
部長である跡部よりも上位権限を持っている榊の了承を先に得てしまう、というも
のだった。
勿論榊とて、二つ返事で了承したわけではない。
それどころかむしろ、盛大に渋面を作られた どうやら過保護体質は部員のみな
らず監督までも波及していたらしいとはこの時点でやっと気付いた。 の
だが、入部に際して付けた『アルバイトを優先する』という条件や、更には学園側
との約定までも持ち出して、強引に、力技で頷かせたのだ。
「なに、ついでだ。気にすることはない。それに、跡部に請け負った手前もある」
「あー…」
「今、君を一人で行動させたりすれば、跡部がどう出るか…」
「…………」
「…………」
「カサネガサネ、オ手間ヲオカケイタシマス」
大した手間ではない、気にしないように。
再びそう告げる榊の笑みに混ざった苦味が胸を打った。
程なくして、黒のジャガーが都内の某有名ホテルの車寄せに滑り込んだ。
間を置かずに開けられたドアから降りてもう一度礼を言おうと後ろを振り向けば、
駐車場係にキーを預けている榊の姿が。
一瞬、首を傾げかけたが、は直ぐに気が付いて「ああ」と一人首肯いた。
「そういえば、さっき「ついで」と仰ってましたね」
要するに、彼も今日此処で用があったということだ。
そして、見たところ他に榊ほどの人物を呼び寄せられるほどの催しが此処では行わ
れていないらしいのだから、その用事とは恐らくと同じに違いない。
それにしては平服のままというのが引っかかるが、そこもと同じで予め別に
とってある部屋でシャワーを浴びて着替える積りなのだろう。
「察しがいいな。その通りだ」
答える榊はどこか楽しそうだ。
反しては深い溜息をこぼす。
「あの会社は榊グループの系列ではなかったはずですが」
「どう思うかね?」
「どうとでも。最大手の取引先が榊グループ傘下ってこともあるでしょうし。貴方
があの会社の筆頭株主だといわれても驚きません」
「筆頭ではないな。経営参加もしていない。個人的に株を持っているだけだ」
「……つまり、経営参加できるだけの株を所有してるんですね」
しかも、個人的に。
なんとも豪勢な話だとは思うが、跡部や榊にとっては珍しい話でもない。
「」
「はい?」
「……やはり、跡部達にも言うつもりはないのか?」
「……それは……」
「いつまでも隠しておけることではないぞ」
「………でも」
「まぁ、君が決めることだ。無理強いをするつもりはない」
「監督…」
「ただ、の口からではなく彼らが真実を知ってしまった場合の彼らの怒りを
受け止める心構えだけはしておきなさい」
「はい」
では、会場で会おう。
遠ざかってゆく榊の背中を複雑な思いで見送った後、は気持ちを切り替える
ように担当営業がやきもきしながら待っているであろう部屋へ向かって足を進めた。
「大丈夫かな…」
幾重にも重ねた黒レースのヴェールの下から、はぼそりと呟いた。
「大丈夫ですよ! 美容師さんにしっかりメイクもしてもらってるし、ヴェールも
被ってるんですから、絶対顔なんて判らないですって!」
「顔出しはしないって約束だったのに…」
「すいません、どうも今日出席される取引先のお偉いさんが先生の本のファンだと
かで、どうしても先生にお会いしたいってゴネたらしくて…」
社長命令なんですと項垂れる彼女はまだ若い。
幾ら契約があるとはいえ、それを楯に幹部の指示に逆らえというのは荷が重過ぎる
のだろう。と歳が近い方が話がしやすいだろうと異例の抜擢をされたらしい
が、それがアダとなったわけだ。
「…ま、今更伊藤さん責めたって仕方ないですしね」
すまじきものは宮仕え、といったところか。
「それに、私の第一作の日本語訳版の出版記念イベントなわけだし。いつまでも隠
れてられない、か」
「そ、そうですねっ。いわば、今日が先生の日本デビューの日ですもんね」
「んじゃ、ま。覚悟決めて出陣してきます」
「はい、頑張ってください!」
伊藤が握り拳を固めたその直後、舞台で司会がのペンネームを呼ばわった。
出版記念パーティと言っても、実際に本が出版されるのはまだもう少し先のことだ。
原稿自体は既に校了しているが、印刷にはまだ数週間かかる。更にそれが各地の書
店へ配送されるのにもやはり日数がかかるため、今日の催しは出版前に各方面のお
偉方を集めての宣伝とゴマ磨りが主な目的と言えるだろう。
実際、も伊藤から今日のコレはキャンペーンの下準備のようなものだと聞か
されている。
こういうことはイギリスでもあったから慣れていると言えなくもないので、別にこ
ういう場に出ることが苦痛と言うわけでもない。実際、舞台に上がってのスピーチ
も 多少、声音を使った上に全部英語ではあったが 問題なく終えることがで
きたのだし。
……では何をそんなに嫌がっているのかといえば、はただ、本の作者として
顔が知られることを危惧していた。
なのに
「………なんでテメェがこんなところにいやがるんだ、アーン?」
跡部自慢のインサイトには、お人形のような厚化粧も重ねられたヴェールも、全く
の無力らしかった。
next.
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バレた。