内容の都合上、多少の暴力表現があります。
ご注意下さい。
小さな機械の集まりから何かが割れた音が聞こえた。
『こんなところに隠れて、何処まで僕を焦らせば気が済むんだい』
それから、虫唾の走るような、だらしのない、活舌のひどく悪いねちゃねちゃした
神経を逆撫でる男の声。が息を呑んだのが分かった。
『来ないで……っ』
『僕のものだ。ちゃんは僕の…』
『来ないでって言ってるでしょう!!』
急に雨音のようなものがの声に被さり、男の短い悲鳴がそこに混ざった。
それから、バンッという硬い何かを叩きつけた音がして、また男の短い悲鳴。
が何か抵抗して暴れたらしい。
だが、所詮は女の細腕。
長く続くはずがない。
「おい、もっとスピードを上げろ! パトカーが追ってくるなら好都合だ!」
こちらの通話に男が気付いていない場合を考慮して携帯電話を掌で覆うと、跡部は
運転手に鋭く告げた。
バァン、と大きな風船が割れるような音がして、浴室の強化プラスチック製のドア
がとうとう割れた。それでも男は更に何度か打撃を加えて腕が通るような穴を開け
ていく。
そこから突っ込まれた腕がモタモタと手探りで鍵のつまみを捻るのを、浴槽の縁に
腰を下ろしたは、どんどんと高まっていく自分の心臓の鼓動と一緒に見つめ
ていた。
ドアが、音もなく開かれる。
砂泥に汚れた革靴がじゃり、とプラスチックの破片を踏んで音を立てる。
浴槽の中に差し込むように下ろされたままのの右腕が緊張に強張った。
跡部と繋がったままの携帯電話は、湯桶の陰に隠してある。
「こんなところに隠れて、何処まで僕を焦らせば気が済むんだい」
「来ないで……っ」
べっとりした猫なで声に、の背筋に悪寒が走った。
どこか焦点の合っていない目と薄笑いを浮かべたその顔は嫌悪の情しか催さない。
その男の、ずんぐりした手が伸ばされた。
「僕のものだ。ちゃんは僕の…」
うわ言のような呟きに身を竦めながらも、はさっと右手を引き上げた。
「来ないでって言ってるでしょう!!」
そこに握られたシャワーヘッドから迸る湯が男の顔面を襲う。
「うわぁっ?!」とっさに上がった悲鳴ともうもうと立ち上る湯気が、その湯温の
高さを物語っていた。
浴室ドアが破られている間、はシャワーヘッドを残り湯の中に沈めて音を消
し、温度調節つまみを限界まで回しておいたのだ。
元より、火傷するほどの高温に出来るようには設定されていないが、不意を付けば
ある程度のダメージを与えることは出来る。
相手に隙を作ることも。
男が顔を庇ってよろめいた瞬間、シャワーヘッドを手放し、代わりに掴みあげたの
は持ち易いように畳んだ浴槽蓋だった。それを大きく振りかぶり、男の脳天目掛け
て全力込めて振り下ろした。
「ぐわっ」
よろめいた上に頭に衝撃を受け、更に足元はプラスチックの破片が散ったタイルパ
ネルの床、という条件がの思惑を助けた。
隠しておいた携帯を掴むや、床に倒れこんだ男の上に更に覆いかぶさる浴槽蓋の上
を踏んで、浴室を飛び出した。
一直線に玄関に向かい重たいドアに飛びついて、焦りと恐怖で震える指で、まず一
つ目の鍵のつまみを回した。
浴室から、口汚く悪態を吐く怒声が聞こえてくる。
はやく。
はやく!
目の高さにある二つ目の鍵のつまみを回す。
ガラガラと物が崩れるような物音が聞こえて、ストーカー男が立ち上がったのだと
それで分かった。
はやく、はやく。
はやくはやくはやく。
泣き叫びたい衝動を無理やり押さえ込んで、最後のバーロックを掴んだ。
ぐっと引いた 動かない。
「どうして?!」
何度も力任せに動かそうとするが、冷たい鉄とアルミの塊は微動だにしない。
早いリズムで近づいてくる足音。
焦りのせいか恐怖のせいか、無駄と分かっていてもがたがたとそれを揺することし
かできない。
「なんで?! 開いて、開いてよっ!!」
指が震える。
涙がにじんでくる。
その、ぼやけた視界に、バーの根元にぽちりと盛り上がった小さなボタンが飛び込
んできた。
そうだ、これだ!
明瞭に意識するより先に指がそこを押し、もう一方の手がバーをドアの側へ押し戻
した。それはあっけないほどスムーズに動いてくれた。
ドアノブに手をかけた。
ぐるりと回した。
体重をかけてそのまま押した 廊下の見慣れた景色が、今は楽園の入り口に見え
た。
なのに。
肩を強く引かれて足払いを掛けられた、と理解できたのは、背中を打った痛みと、
床の冷ややかさを掌に感じたときだった。
そして目の前には、濡れた前髪を額に張り付かせ、表情を歪ませたストーカー男。
「逃がすわけないだろぉ、お前は俺のだって言ってんだろうが!」
身構える間もなかった。
頬を張られた瞬間は、痛みよりも衝撃の方が大きくて目の前が暗む。
シャツの胸元を掴まれ、引き裂かれた。
「いや!」
「俺のだ。誰にも触らせない。俺のだ俺の、俺の…」
「嫌だ!! 離せ!!」
キャミソールをたくし上げられ、男の手が直に肌に触れた。
途端にぞわりと背筋を駆け上った嫌悪感に吐き気がこみ上げた。
「離せ変態! 触るな!!」
「うるさい!」
それなのに、どんなに必死に抵抗しても呆気なくかわされ、逆に押え付けられてし
まう。
男の息が顔にかかる。
気持ち悪くて情けなくて、知らず涙がにじんだ。
嫌だ。
気持ち悪い。
助けて。
誰か、誰か。
「助けて 跡部!!」
「煩いって言ってんだろぉがぁ!!」
髪をわし掴まれ、力任せに床に叩きつけられた。
「お前は!」
叩きつけられる。
「俺のだって!」
ゴン、ともガン、とも言えない妙に鈍い音が脳に響く。
「何回」
もう一度。
「言えば!」
また。
「わかるんだ!」
気絶する寸前の意識を、繰り返す痛みが呼び戻す。
「……っぐ」
「あんなクソガキ共に愛想振りまいてんじゃねぇよ、このメス豚がぁ!!」
それすら限界に近づいてきたところで、男の手がの髪を離した。
その手が次に掴んだのは、最早痛みにうめくことすら出来ないの、無防備に
曝された 細首。
「豚が俺に逆らうんじゃねぇよ! 豚は豚らしく、おとなしく俺の言うとおりにケ
ツ振ってりゃいいんだ!!」
「……っ」
逆上して見境がなくなっているのか、首を絞める手に加減はなかった。
目の前が赤く、そして暗く染まってゆく。
の意地を示すかのようにばたつかせていた足から、力が抜けていった。
だから、はその時のことを覚えていない。
マンション中に響き渡るかと思うほど乱暴に、叩きつけるように開かれたドアも。
「!!」
同時に飛び込んできた跡部の、切羽詰った声も。
「! テメェは…っ」
に覆いかぶさるストーカーの姿を視認した瞬間に爆発させた彼の怒りも。
一拍遅れて駆けつけてきた忍足達の様子も。
何も。
next.
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ストーカー事件はここで終了。