甲高い悲鳴と低いどよめきが教室中を覆っていた。
「………えーっと?」
「聞こえたんだろ。ウチのマネになれよ」
「マネって、マネージャーよね? 男子テニス部のマネージャーを私にやれと?」
「そうだ」
「嫌」
一言で切って捨てた。
それはもうすっぱりさっぱり。
そうしたら。
「……何だと?」
まさか断られるとは思ってもいなかったのか、跡部の眉間にくっきりと皺が寄った。
岳人の顔が蒼褪めている。
「だから、嫌です。謹んでご辞退申し上げます」
が、は全く怯まない。
「理由を言え」
「まず1、何故私がマネをやらなければならないのか判らない」
「それは説明してやる」
「じゃあ2、私には部活をやってる時間はないので無理」
「何でだよ。バイトか?」
「私は一人暮らしをしていてね、学費と生活費を稼がないと生きていけないの。苦学生なの」
ちなみに、ちゃんと学園長のサイン入りで就労許可証を取得済みだ。
跡部はが差し出したそれにざっと視線を走らせて、
「何のバイトだよ」
中々しつこく食い下がってくる。
「黙秘」
「言えないようなバイトかよ?」
「そんなバイトにここの学校は許可証を出すの? 一度脳を経由して喋るようにしたら?」
これ見よがしの溜息を吐いて、は跡部から視線を外した。
先ほどまで読んでいた本のページを捲る。
今度こそ、怒って何処かへ言ってくれるだろうと期待して。
「拒否する理由はそれだけか?」
だが、跡部は引き下がらなかった。それどころか薄く笑んでさえいる。
「……充分な理由でしょ?」
あまりのしつこさに露骨に辟易してみせて、はもう一度跡部を見上げた。
彼のことをよく知っているわけではないが、その尊大な笑みに腹が立つより先に何故か警戒心
が湧いた。
「1の理由は後でじっくり説明してやるよ。2は、そうだな。そんなバイト辞めてしまえ」
「……何言ってるの? 私の言った事、聞いてた? 私に飢え死にしろって?」
「お前のバイト代位俺が出してやるよ。それならバイトする必要はなくなるだろうが」
「………………」
「なんだよ、嬉しくて声も出ねぇか?」
馬鹿か、この男は。
目の前が暗く……いや、白くなったのか?
どちらでも良いが、とにかく、眩暈がしたのは確かだ。
「何とか言えよ、」
「生徒会長で男子テニス部部長の跡部景吾がとってもお金持ちで世間知らずの坊だって事はよ
く判ったわ」
「あン?」
「はっきり言ってその申し出はかなり迷惑。っていうか変。怪しい。なのでお断り致します」
空いた口が塞がらないとはこのことだ。
人生の中でこんな申し出をされる事も断るのもこれが最初で最後だろうなんて頭の隅で考える。
……というか、最後であって欲しい。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎる。
「生憎ですけど、私は私の仕事をとても気に入ってるので辞める気は全く無いの。従って時間
が取れない以上、部活はできません。お解り?」
「………気に入ったぜ」
きっと睨みつけるの顎を、跡部の指が捉えた。
青い瞳が楽しそうに煌いている。
逆にの背中には盛大に悪寒が走り回った。
黄色い歓声だか悲鳴だかが教室どころかギャラリーの集まった廊下まで轟き渡ったが、跡部は
慣れているのだろう、気にもならないらしい。
「1の理由を教えてやるよ」
「な、なに…?」
「お前が差し入れたお握り、あれだ」
「……あれが何か? そこにいる向日クンに頼まれたから差し入れただけなんだけど」
何の変哲も無いお握りだった筈だ。
いちゃもんをつけられる覚えは無い。
「あれ、何であんなに小さく作った? お前の手はそんなに小さくないだろう」
跡部が空いてるほうの手での手を取った。
そのために背を屈めている為、二人の顔が接近する。
またもや煩いほどの声が周囲で上がり、岳人が慌てたように跡部を引き離そうと、その肩を揺
すっていたが、跡部は無情にその手を払い除けてしまった。
「……別に、大した理由なんかないわよ」
「嘘を吐くなよ。あれだけの量をあの小ささで握るのは時間と手間が相当かかった筈だ」
全てを見通すような跡部の瞳。実際に見透かしているのだろう、が一口サイズとはいか
ないまでも、精々二〜三口サイズで差し入れのお握りを作った理由を。
逃さない、と言いたげな視線に負けて、はしぶしぶ口を開いた。
「……素人考えなんだけど」
「言えよ」
「お握りって結構お腹にクるでしょ? でも塩気があるから、汗をかいた後だと結構食べ過ぎ
たりしがちだし。小さければその辺調節がし易いかな、と思って」
「……やっぱりな」
手と、顎が不意に自由になった。
代りにぽんぽんと軽く頭が叩かれる。
予鈴が鳴っていた。
「気に入ったよ、お前。絶対にウチのマネにしてやる」
覚悟しとけよ。
最後まで偉そうにそう言い残して帰っていく。
彼の進行方向にいるギャラリーの海が見事に割れていく。
まるで映画『十戒』のようだと思いついたところで、預言者のモーセと俺様跡部を比べるのは
幾らなんでもモーセに失礼だったと反省しつつ笑った。
そしてはた、と気付く。
「1の理由教えてやるって、結局教えてもらってないじゃない」
差し入れのお握りの謎は、それから暫くの間を悩ませた。
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