それは全くの敵前逃亡。

言い訳ができないのは十二分に分かっていても、それでも逃げ出さずにはいら
れなかった乙女心を少しは察して欲しい。


というか、察しろ。


そして場所を選べ。




……どうせ分かっててやってるんだろうけれども。











世界と引き換えにしても欲しいモノ










過去にだって恋愛沙汰がなかったわけではないけれど、だけどそのために泣
いたことなんて一度もなかった。
彼氏という立場の人間と一緒にいてもどこか冷静に状況を分析してる自分が
常にいて、そのせいか「恋にうつつをぬかす」状態を経験したこともない。


……なのにどうして今、喉の奥が痛いんだろう。


ーっ、飲んでるのぉっ?」
「うぁっ! アンコちゃんあぶねっ」


突然隣に割り込んできたアンコに背中を押されて、グラスの中身が大きく揺
れた。気をつけてよね、と軽くねめつけたところで、アンコに通用するわけ
がないとは分かっていたが。

予想通りアンコは「ごめんごめん」と詫びつつも強引な割り込みを止めよう
とはしない。
大阪のオバチャンも裸足で逃げ出しそうな図々しさも、苦笑一つで許してし
まえるのは彼女の人徳だろうかと、は以前仕事で何度か訪れた都市を
懐かしく思い出しながら体をずらして彼女が座れるスペースを空けてやる。
隣に並んだ頬はすっかりいい色に染まっている。


「アンコちゃんご機嫌だね」
「なぁによぉ、おっとなしく飲んでたってつっまんないでしょお〜」
「そりゃそうだ」


あっさり同意すれば、「でしょ? だから飲め飲め!」等と言いつつ
のあまり減っていない中身を更に継ぎ足す。
こんなに飲めないよ、と訴えても聴く耳は持ってもらえそうにはないなと冷
静に判断して、はぐっと呑み込むフリをして見せた。
グラスの中身は殆ど減っていないのに、案の定アンコは簡単に騙されて喜ん
でいる。「なかなかやるじゃない」と手を叩くアンコにすかさず返杯と称し
て酌をすると、アンコの意識はあっさり酒に引き戻されてくれて、
こっそり息を吐いた。

と、向かいに座っていた紅が目が合った途端に意味ありげに笑った。


「上手いものね」
「ま、ね」


苦笑しつつ、グラスをちびりと傾ける。
は下戸ではないが、酒に強いわけでもない。
勤め人の世界では「酒を飲んでいるフリ」はなかなかの必須スキルなのだ。


「…で、なに考えてたのさっき」
「え?」
「アンコに声掛けられるまで、随分ぼーっとしてたわよ」
「あー…あはは」


笑って誤魔化そうとしたが、紅の目は既に据わっている。
傍目には分かりづらいが、どうやら彼女も結構酔いが回ってきているようだ。


「んー、あれをね、見てたの」


尚も詰め寄られ、はあっさり白旗を揚げた。
小さく指差す先には、文字通り前後左右をくの一たちに囲まれたカカシ。


「すごいなぁって。カカシさんモテるんだ」
「あんな覆面男のどこがいいのか理解不能だわ」


すっぱり切って捨てる紅に「酷いなぁ」と苦笑を返して。


「カカシさんは優しいよ?」
「…ま、仲間は大事にする奴だけどね」
「……カカシさんは優しいから」


きっと、彼女たちも彼のそういうところを敏感に感じ取っているのだろう、と
まで乙女ちっくなことは考えない辺りが自分だよなと笑ってしまう。


「もしも……ったら」
「何?」
「なんでもない」


笑って首を振る。

もしも私がこの里で生まれ育った人間だったら、今頃は彼女たちのようなくの
一にでもなっていたのだろうか。

は束の間空想する。

こんなふうに任務の合間に皆でお酒を飲んで、暢気に「誰それがカッコイイ」
とかお喋りして。それでもってもしかしたらカカシさんのミーハーファンやっ
てたかもしれない自分の姿を想像する。


「……無理か」


昔から運動神経に不自由していたことを思い出して自嘲する。
万に一つ、忍者になれたとしてもきっと最初の数回の任務で怪我を負って引退
するか、下手をすれば死んでいるかだっただろう。

分かっているのに空想が止まらない。

もしも自分が忍者だったら。
もしも自分がこの世界の人間だったら。
もしも自分が、化け物じみたチャクラの持ち主なんかでなかったら。
もしも。
もしも。


「だめだ、のーみそぐだぐだ」


情けない。
実は自分が意識している以上にアルコールが回っていたのか。これではアンコ
や紅のことは言えやしない。


「なにやってんだか」


自分は医者だというのに、なんという体たらくか。


「一人で百面相して楽しい?」


見てる方はおもしろいからいいんだけど。
紅のからかいにボンッと顔が紅潮する。…もっとも、この場ではその方が周囲
に馴染んで目立たないのだが。


「そ〜んな真っ赤な顔しちゃって、一体誰のことを考えてたのかしら?」
「だ、誰って」


「そりゃーもっちろん、カカシっしょー」
「アンコちゃん?!」


どうして「誰」と限定するのか、と口を開きかけたその瞬間を狙っていたの
かと疑いたくなるくらい良いタイミングでアンコが会話に割り込んできた。
しかも大声でカカシの名を口にするものだから焦ってしまう。
聞こえたらどうするんだと慌てて目を向けると、幸いカカシはこちらに背を
向けたまま。
相変わらずの猫背で杯を傾けている。
はほっと息をついた。


「ほらほら〜、そぉんなにあっつぅ〜い目で見ちゃってさぁ」
「いやこれはアンコちゃんが変なこと言うから…」
先生!」
「はい?!」


ダン!
テーブルにジョッキを叩きつける音と共に名を呼ばれて思わず居住まいを正
せば、呼びかけた当の本人であるライドウが紅を押しのけての目の前
にどしんと腰を落とした。
普通ならば上役である紅にそんな態度をとれば叱責は免れない。が、ここは
無礼講を合言葉にする酒宴の席。おまけに紅自身も面白がって事の成り行き
を眺めているとあっては問題にされよう筈もなく。


先生は、はたけ上忍と付き合ってるという噂は本当なんですか?!」
「はい?」


目を丸くするの隣で、「おぉ、直球だー! 男らしいぞ、ライドウ!!」
とアンコが手を叩いて喜んでいる。
すっかり酔いに目を据わらせたライドウはそれには構わず「どーなんですか、
先生!」と更に詰め寄ってくるから、は頭を抱えて丸くなりた
い衝動をぐっとこらえながらそれを否定した。


「誰がそんな根も葉もないこと言ってるんですか」
「じゃあ付き合ってないんですね?」
「ないです」
「他に付き合ってる人は  
「そんな人はいませんよ、もう」


酔ってるせいかライドウの声も充分大きくて、気が付けば周囲の目はすっかり
このテーブルに集まってしまっている。
とんだ羞恥プレイだ。
一体自分が何をしたと舞台女優なみに身振り手振りを付けて嘆きたい気分だっ
たが、酔っ払ったライドウを責めるわけにもいかず、代わりに、助けてくれる
どころかあからさまに面白がってニヤニヤ笑っているアスマを遠慮なく睨みつ
けた。


「いないんですか?」
「いません」
「ってことは、先生は今フリー?」
「そうです。どこに出しても恥ずかしくない、立派な独り者です」
「じゃ、じゃあ…」


ごくり、と唾を飲み込むライドウの顔が一層赤くなった。
急に酔いが醒めたかのように真剣な様子のライドウを訝しんで、は首
を傾げつつその赤い顔を覗き込んだ。


「ライドウさん?」


こころもち、声を落として。
そっと、探るように頬に伸ばされた指先は誘いかけるようで。

考えるよりも先にライドウはの手を捕らえて引き寄せていた。


「へ?」
先生っ、あのっ、お、俺と…っ」
「はーい、そこまで」


手を引かれたために必然的に近付いた顔と顔。
目の前に迫ったライドウの顔が不意に何かで遮られた。


「は、はたけ上忍!」
「悪いね、さんとは俺の方が先約なのよ」


はいどいた、と然して力も篭めてなさそうなのにカカシの手の一振りでライ
ドウの身体はごろっと後ろに倒れこみ……勢いが付いていたのか、そのまま
ごろごろと壁際まで転がっていってしまった。
直後に聞こえてきたドシンという小さくはない音と振動にの肩がびくっ
と震えた。


「ライドウさん、怪我は…」
「あーはいはい、ダイジョーブ。アイツも忍者なんだから受身くらいとって
るよ。さんが心配することなーいの」
「や、でもすごい音が」
「いーから、さんはそこ座る」
「……はい」


指示されるままに浮かしかけた腰を下ろすと、カカシは満足げに頷いた。


「え…と」


気まずい。
なにせ昼間にあんなことがあったばかりだ。
出来れば暫く顔を合せないでいたかったのだけれど、今日の酒宴の名目が名
目だけにそうもいかず、きっとカカシのほうも気まずさに自分を避けてくれ
るだろうと思っていたし、実際さっきまではそんな感じだったのに。



「あの…」
「真剣な相手を茶化したりするのって良くないと思わない?」
「へ?」


唐突に切り出された何の脈絡もない言葉に面食らう。


「ね、どう思う?」
「え…えーと、それは、良くないと思います。はい」
「だよね」


にっこりとカカシは右目だけで笑んだ。


「じゃ、質問その2。すごく真剣な話をしたのに、相手に信じてもらえなかっ
たとしたら、さんはどう思う?」
「すごく真剣な話、ですか?」
「そう。もう心臓バックバクで、手に汗握って勇気振り絞って話したの」
「それは……ショックです。すごく落ち込むかも」
「そうだよねぇ」


うんうん、とカカシは1人頷く。


「真剣な話をしたのに、相手は信じてくれないばかりか逃げ出しちゃったり
したら、どう? 打ちのめされると思わない?」
「…思います」
「思うよねぇ」


話の先が見えなくて、は段々不安になってきた。
なんだか罠にじわじわと追い込まれているような気がする。
何が言いたいのかと問おうとして、カカシが機先を制した。


「俺もねぇ、地面にめり込むかと思ったくらい凹んだよ」
「え?」
「一大決心してやっと告白したってのに、さん疑うし、挙句の果てに
は逃げちゃうし」
「ちょっ、カカシさん?!」


どよっと周囲が一斉に色めきたった。

の背中を嫌な汗が伝う。


「な、何をいきなり言い出すんですか?!」
「何って、昼間の話の続き」


さんが途中で逃げちゃったからねぇ。
周囲のざわめきも意に介さず、カカシは涼しい顔で言ってのける。


「に、逃げてなんかっ」
「逃げたデショ?」
「ぅ……そ、それは、確かにそうかも…で、でもカカシさんのこと疑った覚
えはないですよっ?」
「でも信じてくれなかった。俺が、義務で言ったと思ったんだよね?」
「………………だって」


他に、どう考えれば良いのか。
こんな厄介事だらけの女を、そうと知って好きだと言ってくれているなんて
ひどい自惚れだとしか思えなかった。

の心を見透かしたように、カカシは深く息を吐いた。


「確かに、さんは色々と事情があるけど、でも、俺はだから
んのことを引き受けようとか思ったわけじゃないよ。俺はそこまでお人よし
じゃない」
「…はい」


そう、それが普通だろう。
だからこそ、カカシの言葉を素直に受け入れることが出来なかった。


「でもね、さんだったら俺はそれを全部引き受けてもいいと思った」
「え…?」


弾かれたように顔を上げたに、カカシは満足そうに微笑んだ。


「昼間俺が言った言葉は、全部俺の本心から出た言葉。何の駆け引きもなし、
デス。……だからね」


俺を信じて?
そして俺を受け入れて?


言葉と共に差し出された手から、は目を離すことが出来なかった。










next.
======================================
カカシさん、正念場。