屋上で見かけたその後姿がひどく頼りなげで。
SHALIMAR
声を掛けようか如何しようか、迷った。
だが、今日は風が強いしもう日も大分傾いている。
放っておけばいつまでもそのままでいそうなの様子に、幸村は漸く心を決めた。
「さん」
一瞬、聞こえていないのかと思った。
声を掛けてから彼女が振り向く、それまでの間がやけに空いたから。
けれど、はゆっくりとフェンスの向こうの景色から目を引き剥がし、代りに
幸村をその視界に納めた。
何の感情も篭もらない硝子のように透明な瞳で。
「ゆきむら、くん」
いまだ声は掠れていて、声を出すこと自体辛そうに幸村を呼ぶ。
「良かった、もう動けるようになったんだね」
無理に喋らなくていいよと言うと、はこくんと頷いた。
真田と赤也が家に押し入ったとき、彼女は意識不明の状態でベッドに寝かさ
れていたと聞いた。過剰に精神安定剤を飲まされており、かなり危険な状態だった
とも。
その薬を与えたのは他の誰でもないの母親で、病院で処方された薬を飲まず
に溜め込んでいたらしい。
「…看護士さんが、幸村くんがお見舞いに来てくれてたって」
「あ…うん、まぁ。……心配だったしね」
碌に食べ物も与えられず、ただ強制的に眠らされていた為に衰弱は激しくて、意識
を取り戻して以降も夢と現実の間を漂うばかりだったため、幸村が病室を訪れたこ
となどちっとも覚えていない。
それを謝ると、幸村は困ったように笑んで眺めの前髪を掻きあげた。
「俺が勝手にしたことだから。……何も出来なかったから、せめてこれくらいはね」
その言葉に含まれた悔いを、は敏感に感じ取って首を振った。
何度も。
何度も。
「どうしたら良いのか分からなかったの」
はぽつりとそう零した。
幸村はただじっと黙って聞いていた。
「お母さんは私が誰かと仲良く喋ったりするのを嫌がってた。多分、お父さんみた
いに私がお母さんを捨てちゃうんだと思ってたんだと思う。友達と一緒に帰るのを
見かけたりすると、後ですごく暴れるの。人が違ったみたいに」
言葉を切って、まだ包帯が巻かれたままの腕を擦る。
その下には殴打によるものらしい痣があることを、幸村も親しい看護士から聞き出
して知っていた。
腕だけではない。
肩や腹、足には火傷の跡まである、と。
それを付けた彼女の母親は、あの騒動でギリギリ保っていた精神のバランスを遂に
崩してしまったらしく、精神科病棟に収容されたのだとも。
だが、口に出しては何も言わなかった。
ただ、「そう」と相槌を打つに留めた。
「だから、学校ではなるべく誰とも親しくならないようにしてたの。どこでお母さ
んの耳に入るか分からなかったし、お母さんのこと、誰かに知られるのも怖かった」
「うん」
「…そのうちに落ち着いてくれると思ってた。病院にだって通ってるし、普段は全
然普通だったし、だから」
「うん」
昨日、幸村がいつものように見舞おうとの病室へ向うと、父親らしき中年男
性が訪れてきていた。
らしくないとげとげしい態度と、その男性のどこか堅い言葉の遣り取りに、
二人の仲がうまく行っていないことが容易に察せられた。
おそらく。
は父親が母親に対して行った裏切りを許せないのだろう。
さっきも「父親が母親を捨てた」と表現していたことに幸村は気が付いていた。
けれどやはり幸村は何も言わない。
無理に聞き出そうともしなかった。
そして、には黙って聞いていてくれる存在こそが必要だった。
「だけど流石に薬で眠らされるとは思ってなくて。気が付いた時には頭はぼうっと
して何も考えられないし、私がベッドの上でおとなしくしていたらお母さんはすご
く嬉しそうにしてたし。……だから、ね。本当のこと言うと、実はもういいかなっ
て思ってた」
もう、このまま死んでしまったとしてもいいかな。
そう諦めていたのだとは苦笑した。
笑うしかない、という笑顔だった。
幸村の手が動いて。
の手をぎゅっと握った。
驚いて顔を上げたの背に幸村のもう片方の手が回り、ぐっと抱き寄せた。
「さんが無事で良かった」
耳に流し込まれる言葉は真剣そのもの。
びくりとの体が震えた。
「俺は、さんが生きててくれて、すごく嬉しいよ」
もしも間に合わなかったら、と思うとぞっとする。
自分自身で動けないから尚更に。
「………わたし」
おずおずと、の手が幸村のガウンを掴んだ。
「こわ、かった」
「うん」
「ずっと、誰にも言えなくて。どうしたら良いのか、分からなくて。皆に嫌われた
くないのに、嫌われないといけなくて。寂しいのに、誰もいなくて」
「うん」
声が段々と大きくなっていく。
それにつれて水っぽさを増していく。
幸村は頷く度に腕と手に力を篭める。が痛がらない程度に。
「俺がいるよ」
震える背を宥めるように何度も手を上下させた。
この小さな背で背負っていたモノのなんと大きく重かったことか。
それはまだ完全に降ろされたわけではないけれど、それでも。
「これからは、俺がいるから」
少しでもその苦しみを減らしてあげたいと思う。
開放してあげたいと、そう、思う。
涙をこらえて微笑むのではなく、泣きたいときには泣けるように。
「……勿論、弦一郎や蓮二たちだって、ね?」
本音を言えば。
彼女を大事に思っているのが自分だけではないのが少しだけ悔しかったりするのだ
けれど、それでも彼女を守る壁は多い方が厚い方が望ましいから。
「ゆきむら、くん」
「ん?」
暫くして、ゆっくりと顔を上げたの目は真っ赤に充血していたけれど。
それでも。
「ありがとう」
思い切り泣いた後の笑顔は眩しいくらいに綺麗だった。
「また来るね」
そんな、至極あっさりした言葉を残しては退院した。
身体に巻かれた包帯はまだいくつか残っていて痛々しかったけれど、それでも晴れ
やかな笑顔だった。
それはいいにしても。
「もう少し、こう、情感の篭った挨拶でもよかったのになぁ」
「お前な…」
そんな愚痴を零してみたくなる、お年頃な幸村に、見舞いに来た真田は呆れた顔を
隠そうともしなかった。
「はこれからが大変なんだ。それでもまた見舞いに来ると言ってるのに、何
が不満なんだ」
「それはわかってるけどね」
結局。
中学生の身で一人暮らしをするわけにもいかず、は父親の家に戻ることになっ
た。そこから立海大付属中学までは片道2時間かかるが、それでもは転校す
ることを望まなかった。
の事件のことは地方紙とはいえ新聞沙汰になり、学校中に知れ渡っている。
きっと色々な噂が流れていることだろう。
あることないこと、酷いことも言われているに違いない。
それでも、だ。
「も強くなった。もう大丈夫だろう」
ずっと、幼い頃から彼女の兄代わりを自任してきた真田は、やけに感慨深そうに一
人ごちた。
「弦一郎」
「何だ?」
「……護ってやってくれ、彼女を」
「言われるまでもない」
…だが。
ふっと真田は微笑った。
「もうすぐ、俺の庇護も必要なくなるのだろうな」
「?」
「お前が戻ってくれば、俺はお役御免だ。そうなんだろう?」
揶揄うように言えば、幸村は珍しく頬を染めて視線を逸らした。
「気が早いぞ、弦一郎」
「……そうなのか?」
「ああ。フライングもいいところだ」
「……そうか。それはすまん」
驚きに見開いた真田の瞳は、「何をやってるんだ」と言いたげな色がありありと浮
かんでいたが、幸村はそれを見事に黙殺して、窓の外に眼を向ける。
「まぁ、その予測を裏切るつもりは全くないよ」
「…そうか」
自信に満ちた幸村の声に薄く笑んだ真田もまた、窓の向うに視線を向ける。
「もうすぐ夏だな」
「ああ、もう夏だ」
抜けるような青空がどこまでも広がっていた。
fin.
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完結しました!
長かった…っ。