「誰かっ、誰か助けてぇ!」
傾きかけた陽が差し込む教室。
乱雑に倒れた椅子と机。
だらしなくシャツを肌蹴た男子生徒。
駆けつけた教師に縋り付く女子生徒の制服は無残に引きちぎられている。
すすり泣く声。
遅れて集まってきた生徒達の好奇の視線。
それは夏が終わった後の、夏の日に起こった出来事。
DAZZLING GOLD
「おー、負け犬が通るさー。やったー、はじかさんや〜?」
「っ!」
「乗るんじゃないよ」
見え透いた挑発に反応しかけた平古場クンの肩をとっさに掴んで抑えた。
全国大会から戻って以来、この手の理不尽が増えた。
が、覚悟の上だ。
どんな卑怯な手を使っても勝つつもりでいた。
なのに負けたのだから。
「けど、永四郎!」
「馬鹿を相手にしても無駄でしょう。行くよ」
「う〜」
不満気だけれど、彼はおとなしく俺の言葉に従う。
それで良い。
反応すれば相手を調子付かせるだけだし、今更こんなことで問題を起こしても何の
意味もない。
こういうのは相手にしないのが一番だと彼も知っているのだろう。それでも腹が立
つのは仕方がないと隣でぐちぐちと零す。
「やーはわじらんばー?」
「勿論不愉快ですよ。でも…」
ちらりと視界の端を人影が掠めていく。
ほとんど条件反射でその気配を追いながら、上がりそうになる口元を隠す為にずれ
てもいない眼鏡を直す振りをした。
「でも?」
「……先に怒る人がいるのでね」
「そりゃーわんのことかぁ?」
あてこすられたと勘違いして眉間にしわを寄せた平古場クンに「自覚があるなら少
しは冷静になりなさいよ」などと適当に皮肉りながらも耳を澄ませていれば、
「平良」
ほら。
さんが来た。
「ん?」
「金城先生が呼んでる。アンタだけ数学の課題が出てないって」
「あい?!」
見事に顔色を変えた平良に「ふらー」平古場クンが小さく呟いた。
「同感」俺も小さく呟き返す。
視線は彼女に向けたままで。
平良が忘れたという課題は一昨日提出期限だった。
金城先生は比嘉の数学教師陣の中でも特に厳格で、課題の提出日を1日でも遅れた
らプリント3枚は下らないペナルティが課せられる。
そしてその課題を集めて回ったのは、当日の日直だったさんだ。
これらのことを考え合わせれば、出てくる答えは一つしかない。
残念でしたね、平良。
意識して抑えなければ唇の端が上がっていただろう。
あいつがさんに多少なりとも関心を寄せているのは知っていた。
テニス部に絡んでくるのも彼女と親しい俺達へのやっかみ半分、もう半分は、そう
すれば必ずさんが間に入ってくるとわかっているから。
親しくもなく共通の趣味も話題もない奴にとっては、それが唯一彼女と話せるチャ
ンスなのだ。
けれど 残念でしたね。
さんの関心は俺達にしか向いていないようですよ。
何故って、さんの唇が平古場クンと同じ意味の言葉を紡いでいましたからね。
気付いたのは、おそらく俺だけでしょうが。
そのまま彼女を見ていると、さんは「木手」今のことなどなかったかのよう
にこちらに歩いてきた。武道の心得も何もないと聞いているが、背筋を伸ばして歩
くその足取りは武芸か舞踊の熟練者のように優雅で揺るぎがない。
「なんです?」
「……ひじるってどういう意味?」
「ひじる?」
尋ね返すと彼女はこくりと頷く。
もともと無口な性質なのか、それとも標準語で話すことに気後れしているのか、彼
女の口数は同級生の女子達に比べると格段に少ない。
「それって……ひじゅるーじゃねーば?」
「さぁ?」
「……誰に言われたんです?」
平古場クンの問いにも、俺の問いにも、彼女は同じように首を傾げる。
東京から転入してきた彼女は元々の愛想のなさとやまとぐちで話すもの珍しさ、そ
れからおそらくは、俺達テニス部員と比較的仲が良いことが相俟って、あまり良い
意味でなく女子の中で目立っていた。謂れのない悪口を投げつけられるのが日常茶
飯事になる程度に。
それを思えば、俺の腸は煮えくり返りそうになるというのに。
「さぁ? 勝手に何か言ってきただけだから」
当の本人は何処吹く風と受け流してしまっていて、嫌味を言う方も張り合いがない
こと甚だしいだろう。
「…で? ひじゅるーってどういう意味?」
「冷淡だとか冷血だとか、そういう意味ですよ」
「なるほど」
また新しい単語を覚えた、とどこか嬉しそうな雰囲気を醸し出している彼女にため
息が出てくる。彼女の語彙は日々良くない意味のうちなーぐちで埋まっていってい
ると言うことを、わかっているのだろうか。聡い彼女のことだから解っていないは
ずはないのだけれど、あまりにも暢気すぎる態度に見ているこちらが心配になる。
「平良ね」
覚えたばかりのうちなーぐちをメモしている小さなノートから目を離さないまま、
さんは口を開いた。
「フられたらしいよ。休み前に」
「…え?」
「フン、いい気味さー」
少し、驚いた。
さんは他人の噂話に興味を持つような人ではないと思っていたから。
けれどさんはそれで興味をなくしたかのように自分の席に帰ってしまったか
ら、俺はその小さな違和感を見過ごしてしまった。
「は今日も居残るんばー?」
「そのつもり」
「毎日毎日、部活でもないんに物好きやっさー」
そんなんじゃないよ。
さんは静かに平古場君の言葉を否定する。
「私は近眼だからね。明るい内に帰ると眩しすぎて頭痛がするの。それだけよ」
沖縄の太陽は私には強すぎるみたい。
そう苦笑した彼女の日に焼けていない白い腕が目に焼きついた。
翌日登校してきた彼女の右腕には、ロングタイプのリストバンドが填められていた。
「誰かっ、誰か助けてぇ!」
傾きかけた陽が差し込む教室。
乱雑に倒れた椅子と机。
だらしなくシャツを肌蹴た男子生徒。
駆けつけた教師に縋り付く女子生徒の制服は無残に引きちぎられている。
すすり泣く声。
手首のすぐ下についた、赤い手形。
遅れて集まってきた生徒達の好奇の視線。
平良が絡んでこなくなった。
それどころか、友人達と話すことすらあまりせず、目立つことを恐れるかのように
こそこそとしている。
時折、そんな彼を見て訳知り顔の女子たちが耳打ちしあっている。
それ以外は何も変わらない。
いつも通り。
「木手」
「…なんです?」
「小此木さんから伝言。備品申請通りました。荷物は来週末に届きます。だって」
「そうですか、わかりました」
「彼女はマネージャーさん?」
「いえ、生徒会の会計です」
「…ああ、なるほど」
さんの態度も、何も変わらない。
右腕のリストバンドも今朝から姿を消した。
相変わらず、白い腕。
うちなーの俺と、やまとんの彼女との違いを見せ付けているような。
「いい加減、生徒会メンバーの顔くらいは覚えなさいよ」
「…接点ないし、覚える必要性が見出せない」
「また伝言頼まれるかもしれないでしょ」
「……パシらせられること前提ですか」
すべてがいつも通り。
何も変わらない。
何も。
「ぬーがや、永四郎? 今日は部に顔出すって言ったあんに」
「行かないのか?」
気が付けば、甲斐君も平古場君も既に肩にテニスバッグを担いで廊下で俺を待って
いた。
「今行きますよ」
なのに一人、この「いつも」に馴染めないでいる俺がいる。
視界の端に何か白いものがちらついて、思わず足を止めた。
「木手?」
即座に気が付いた甲斐君が怪訝そうに振り返るが、返答はしなかった。
代わりにそれの正体を確認すべく顔を上げて見直せば、さっきまでいた教室の生成
り地のカーテンが風に揺れていた。
「ああ」俺の視線の先を辿った平古場君が心得顔で頷く。
「のやつ、まーた居残っとるあんに」
「……そのようですね」
「あんなことがあったんに、いー度胸してるさー」
「だなー」
人の口に戸は立てられない、とはよく言ったものだと思う。
『あの日のこと』は教師陣によって緘口令が敷かれたらしいが、今では程度の差こ
そあれ、知らない生徒のほうが少ない。
「こんのクソ暑いんに、わざわざエアコン切って窓開けてる物好きなんて位
さー」
「冷え性なんだってよ。授業中とかカーディガン着てる位さー」
「しんけん?!」
「しんけん。こぬ前見たら、爪(ちみ)青くなってたさー」
「はー。…しに本土もんは弱いなぁ」
だから、彼らがさんのことを話題にするのもおかしくはない。
彼女のことを妙に知っているとしても、それは一時的な好奇心だとわかっている。
けれど、じくじくと痛むのだ。
心臓が、じりじりと火であぶられているような。
「二人とも、先に行っててください」
「へ?」
「あぃー?!」
どうしたんだとか、部活は、とか。
二人の呼び止める声が聞こえたが、そんなものは全て無視してさっき降りたばかり
の階段を駆け上がる。
人気がないと言える時間にはまだ早く、それでも大半の生徒は帰るか部活に行って
しまっているのだろう。奇妙に静まり返った教室棟の廊下にほとんど聞こえないは
ずの俺の足音が響く。
緊張…しているのか。
この、俺が?
いつの間にか握り締めていた拳。浮かんだ笑みは自嘲するそれだ。
一歩を踏み出すのにすら殊更気を使わなければ出来ないなんて、一体全体どうして
しまったと言うのだろう。
益体もないことを考えている間にも目的の教室は近づいていて。
開け放されたドアの向こう、廊下からも窓からも等間隔に離れた席に、彼女はいた。