例によって毎月恒例のバイトで3日間学校を休んだ。
……らば。
「……なんですか、アレは」
異様な光景が学校中で展開していた。
EAU D’HADRIEN
騒がれるのなら分かる。
いつものことだ。
今更驚きもしない。
…が、今日はとても静かだった。
誰もいない。
教室、廊下はもちろん、テニスコートのフェンス周りにさえも黄色い声を上げる女
子生徒達の姿がない。
それはもう、人っ子一人。
「なんなの…?」
静かなのは良いことだが、黄色い声援がBGMとして定着してしまっているここ氷帝
学園ではなんだか異様な雰囲気さえ漂っている。
「そりゃあ……あれのせいやろ」
あれ、と忍足が目線だけで示したのは、このテニス部を取り纏める部長たる人物の
背中で。それは離れた場所から見ていても青い火花が散っているのが目に見えそう
なほどに不機嫌オーラを放っている。
「どうしたのよ、あれ」
「どうしたんやろうなぁ?」
忍足はニヤニヤ笑うだけでまともに答えようとはしない。
けれどその顔は明らかに「理由を知っている」顔だ。
「聞いても、教えてくれる気は無さそうね」
「堪忍な」
が零した溜息に忍足が苦笑った。
「ここで俺が教えたら跡部の機嫌尚更悪なるねんって」
「は?」
すまん、と肩を叩かれる。
それはつまり。
「……私に理由を聞きに行けと、そういうことね?」
私に、あの低気圧の中に突っ込めと?
下から睨みあげてやったが、それで動じる相手ではない。
そんなことは百も承知だけれど。
「察しがええな。頭ええ子は好きやで」
「忍足に好かれても嬉しくない」
ポン、と頭に載せられた手を首を振って振り落とすと「酷いなぁ」と、忍足はやっ
ぱり笑った。
……が、しかし。
「やっぱりヤダ」
「はぁ?!」
なんでやねん?!
叫ぶ忍足を無視してはボールの詰まった籠をよいせっと持ち上げた。
生憎とはマゾヒストではない。
誰が雷に打たれると分かっていて嵐の中に突っ込んで行きたいものか。
「普通、この流れやったら意を決して行く言うんがお約束とちがうん?」
「やだね。私は我が身が可愛いの」
「このままやったら俺ら跡部のしごきのせいで死ぬん確実なんや!」
「ご愁傷様」
「、そんなこと言うなよぉ」
「俺も、無意味なしごきはご免です」
「頼むぜ、マジで」
「お願いしますよ、先輩」
いつの間にか増えた懇願者たちにの足がぴたりと止まる。
くるり、と振り向けば、途端に表情が輝く彼らはまるで幼稚園児だ。
知らず溜息が出た。
「跡部んトコ行く気になってくれたん?」
嬉しそうな、ほっとしたような表情の忍足は珍しかった。
けれども。
抱えた籠を一旦地面に置き、は軽く息を吸い込んだ。
「かーんーとーくー、ここに練習サボって私の邪魔ばかりしてるのが数名いるんで
すけどー?」
声を張り上げた瞬間に、レギュラー達の顔色がさっと変わった。
「どーしますー?」
「行ってよし!」
優美な二本の指が指し示すのはグラウンド……ではなく、明らかに校門で。
つまり、校舎周りを走ってこいとのお達しだ。
「何周ですかー?」
この問いには榊は答えず、ただ外を指し示していた指を少し開いて肩の高さに掲げ
て見せた。更にそれを一本に減らす。
「校舎周り20周を一時間以内だってさ」
「ええっ!」
「何ィっ?!」
「無茶苦茶や!」
広大な敷地を誇る氷帝学園では、高等部の周辺だけでも優に1Kmは軽く超える。
それを1時間でとなると、ほぼ全力疾走で走り続けなくてはならない。
彼らが顔色を変えたのも無理はなかった。
「ほらほら、早く行かないと監督が見てるよ?」
「うわっ」
「っだー!」
「くそっ」
「覚えてろよ、!」
「この借りは必ず返すで!!」
口々に悪態をつきながら走り去ってゆくレギュラーたちに、「いってらっしゃい」
と暢気な笑顔で手を振って、は籠を抱え直すと片付けの為に部室へと足を向
けた。
「あれー? 忍足たちどーしたの?」
「おや、ジロー少年」
何かすごい勢いで走ってったけど?
欠伸交じりに首を傾げる慈郎にも苦笑を浮かべて。
「練習サボってたから監督に走らされてるの。少年もそろそろ本気で練習しないと
忍足たちみたいに走らされるよ」
「げっ。マジー? やべー」
緊迫感の欠片もない口調ながら、それでも多少表情を引き締めてコートへ戻る慈郎
の背も見送って、は部室へと急いだ。
結局、忍足たちは全員時間内に完走できず、明日から1週間、校外5周が筋トレの
メニューに追加されることになった上、機嫌最悪最低の跡部に練習時間一杯まで文
字通り足が立たなくなるまでしごかれていた。
ご愁傷様。
「……あれ?」
「あン?」
跡部と慈郎・樺地以外のレギュラー陣がバテにバテていた為か、今日は部室から人
が消えるのも早かった。
皆早く家に帰って眠りたいのだろう。
今日ばかりは帰りに寄り道など出来そうにもないな、と彼らの心底疲れ切った顔を
思い出してクスクス笑っていると、前触れもなく部室のドアが開いた。
「何してんだよ?」
「掃除。部長こそ、まだ残ってたの?」
「…まぁな」
「ふぅん? さすが部長。練習熱心だね」
感心してみせると、跡部は相変わらず不機嫌そうに鼻を鳴らしてシャワールームに
消えていった。
態度が悪いとムカつくことは今更ない。
ただ、軽く肩を竦めて掃除を続けた。
テニス部のレギュラー用部室は意外と汚い。
慈郎や岳人が菓子を食い散らかすし、忍足は読んだ雑誌を部室に放りっぱなしにす
る。宍戸と日吉は意外と几帳面だが、他の面々は程度の差こそあれ、かなりの大雑
把さである。
毎日の掃除は欠かせない。
最後に掃き集めたゴミを塵取りに移し、ビニール袋に放り込んで口を縛っていると、
「」いつの間にか出てきていた跡部に呼ばれた。
「なに?」
腰から下を大判のバスタオルで覆っただけのあられもない姿に、キャー等と悲鳴を
上げるわざとらしくも分かり易い可愛らしさは残念ながらにはない。
むしろ、写真に撮っていつもフェンスを取り囲んでる跡部ファンに売りつけたら幾
らで売れるだろうかと考える。…1枚1,000円は固いか。
「お前、一昨日が何の日だったか知らねぇのかよ」
「は?」
突然の意味不明な質問に素っ頓狂な声を出して、
「えー? 一昨日ってことは、今日が6日だから、4日でしょ? 10月4日……何か
あったっけ? ちゃんから聞いた限りでは練習試合の予定はなかったはずだ
し、Guy Fawkes Dayは11月5日だし…?」
指を折りつつ首を傾げれば、跡部の舌打ちが聞こえてきた。
「もういい。…ったく、半月も前から女共があんだけ騒いでただろーが」
「え? 何?」
後半部分の呟きは、跡部が背を向けていることもあって聞き取れない。
「いいっつってんだろうが。それよりいつまでそこにいるつもりだ? そんなに俺
の着替えが見たいのかよ?」
「見たかないよ、そんなもの」
即答で切り捨てるのはいつものこと。
そうして背を向けて、誰が持ち込んだかは自明の、座り心地のよいソファに腰を下
ろした。
「背中向けてるから、さっさと着替えて」
「出て行かねぇのか?」
「榊監督に部室の戸締り頼む、って鍵預けられちゃったから」
振り向かず、チャラリと軽い音を立てるそれを肩越しに示せば、「それは俺に任せ
てお前はもう帰れ」と珍しいことを言われた。
いつもなら「それはそれは。しっかり頼むぜ」と小ばかにした笑みを浮かべて鼻で
笑うというのに。
「……どうしたの?」
「何が」
「いやいや……」
機嫌が良いわけでもないのに跡部が優しい。
尤も、部活中よりは多少は機嫌も直ってきているようだけれど。
「まぁ、申し出は有難いんだけど、遠慮しておくよ。監督から言われたのは私だか
らね。それをまた別の人に、って言うのは無責任だし」
「そうかよ」
「うん。ありがと」
「…………別に」
暫くそのままでいると、不意にすっきりとした香りがの鼻腔を擽った。
それが別の記憶を喚び起こす。
「あ!」
「あン? なんだよ」
「部長、振り向いていい?」
「はぁ?」
「忘れてた!」
「あ…ああ、まぁ、いいぜ」
訳がわからぬままに承諾した跡部は制服のズボンを穿いてはいるものの、ベルトは
留められておらず、上半身などは指定のシャツを羽織っただけという恰好。
それでもは遠慮もなしにその傍らに立ち、自分用のロッカーから鞄を引っ張
り出してごそごそと中を探り始めた。
「おい、なんだよ…?」
「あ、あった!」
これっと小さな箱を掴み出したと思ったら、それをそのまま跡部に投げて寄越した。
説明の一切ない行動に面食らいながらも、それを取り損ねる跡部ではない。
しっかり掴んで見てみれば、包装の類はされていないものの、箱自体には高級そう
な印刷が為されている。
「EAU D'HADRIEN?」
「いい名前でしょう?」
訳がわからなくてを見遣れば、何故かは得意げに胸を張っている。
「日本語に訳せば『ハドリアヌス帝の水』。ハドリアヌス帝と言えばローマ5賢帝
の一人よ」
「そんなことは分かってんだよ。これがどうかしたのか?」
問い返すと、は察しが悪いなぁ、と唇を尖らせた。
「だーかーら、『帝王の水』って意味でしょう。部長にぴったりだと思わない?」
「!」
にっこり微笑まれて、一瞬跡部の時間が止まった。
「ネットでたまたま見つけて、思わず衝動買いしちゃったのよ。部長にプレゼント
しようと思って。ホントは4日前の夜に届いてたんだけど、ほら、次の日から休ん
じゃったから渡すに渡せなくてさ」
「いや、でも…」
「ん?」
「お前、知らなかったんじゃなかったのか?」
「は? 何が?」
首を傾げるはどうやら本気のようだ。
本気で跡部の誕生日を知らないのだと確信できた。
なら、どうして。
「なんで、これを俺に?」
「いや、だから人の話聞いてる? 名前がぴったりだと思ったからって言ってるで
しょうが」
それだけのことで?
跡部がじっとを見つめているのを勘違いしたのか、の眉間に皺が寄っ
た。
「気に入らないんだったら、返してよね」
「…どうすんだよ?」
「もう一人、その名前にぴったりな人知ってるからその人にプレゼントする」
「ああ?」
ひくり、と跡部のこめかみが引き攣った。
もう一人、だと?
冗談じゃない。
「この俺以上にこの香水に似合う奴なんざいやしねぇんだよ、バーカ」
くしゃりと目の前の頭を撫で回して。
「仕方ねぇから貰っといてやるよ」
「……偉そう」
お礼くらい言えと言うと、跡部は徐に居住まいを糺し、
「Merci beaucoup.」
この上なく優雅に頭を下げて見せた。
もう、不機嫌の影などどこにも見当たらなかった。
fin.
====================================
アニック・グダールの実在の香水です。
マドンナやプリンスが愛用したらしいセレブ御用達のフレグランス(笑)。
この名前見たときに絶対跡部に使おうと思ってました!
ちなみに、ヒロインさんの言う「もう一人」とは勿論、立海の「皇帝」です。
………跡部、誕生日に間に合わなくてゴメン(--;