パタン、と乾いた音を立てて閉じた携帯を暫く握ってその冷たさを味わっていたのだけれど、
その黒い機体は簡単に手の平の温度と同化してしまったので、枕元に放り投げた。

電話をしてみようか、と言う考えはすぐに掻き消した。

仕事でもプライヴェートでも忙しい彼のこと、電話をしてみたところで出ない(出られない)確
率の方が余程高いのだからと自分に言い訳をする。



大体、電話をして何を言うつもりだったのだろう?



淋しい。
痛い。
辛い。
だるい。
不安。
心細い。
寒い。
……………会いたい。


まるで小さな子供のようにポロポロと弱音が零れ出てくるなんて、本当にどうかしてる。
薄く自嘲してたった今耳元に当てた体温計の表示を見れば、それも当然か、と更に笑いが零れ
てくる。


『38.7』


液晶の文字は正確にして無情だ。


「……見なきゃ良かった」


具体的な数値を知ってしまった途端、体がその数値通りの症状を呈し始めたような気がして、
は深くゆっくりと息を吐いた。
そうしないと、咳をし過ぎて痛み出した首の筋肉が悲鳴を上げるからだ。
喉はカラカラに渇き、体中の関節が鈍く痛み、目の前の世界は心なしか歪んで見える。頭はぼ
うっとしていて、正常な判断力などとうの昔に靄の彼方へ蹴り飛ばされてしまった。

数日前に現れた引き始めの症状を自覚した時に、有給でも取って一日ゆっくり休めばここまで
こじらせる事もなかったのだろうけれど、生憎が抱えている中でも大きな仕事が大詰め
を迎えていて、しかも作業の全体を把握しているのは彼女だけと言う状況で抜けるわけには行
かずにドリンク剤片手に無理をしたのが祟ったのだろう。

その仕事が終った金曜日の夜、部屋に辿り付いたを鉛のような疲労感と風邪の諸症状が
津波のごとく襲って、今に至っている。

ベッドに頭まで潜り込んだ状態でも、考えるのはただ、只管に。


「会いたいよ、健司」


こうしてる間も、電話が掛かってこないだろうかと考えている。
がちゃりと玄関の鍵が開く音がして、あの男のくせに下手な女よりも綺麗な顔がひょっこりと
現れないだろうかと。


「……そんなはずないのにねー」


そもそも藤真は、がこうして臥せっている事など知りもしない。
同じ会社でもないから、の体調が悪そうだとか風邪気味だとかが伝聞でも藤真の耳に入
るはずもなく、わざわざ知らせて心配させる事もないとも敢えて教えるような真似はし
なかったのだから。
おまけに、今週は月末の締めで地獄のように忙しいと冗談交じりの愚痴メールを昨夜受け取っ
たばかりだ。きっと今夜も遅くまで残業なのだろう。






それでも。






偶然を願うのは、熱のせいで脳が煮えてるからだろうか。


「……あたしって、こんなときでも可愛くないなぁ」


苦笑が漏れる。
一人なのだから、誰に意地を張る必要もないというのに、どうして自分はこうなのだろう。


「健司も、よく我慢してるよね〜」
「そうだな。我ながらすごいと思うよ」
「?!」


在り得ない応えに思わず身を起こしたら、ぐらりと天地が揺らいだ。


「…っ」
「おい、無茶するなよ?」


ぐらつく上半身を支える腕は紛れもなく会いたいと願っていた人のもので。


「な、え、健司? なんで?」


纏まらない頭と歪む視界に眩暈がする。


「なんでって、週末の夜に恋人の部屋に泊まりに来ちゃ悪いのかよ?」


呆れたように言われて、ふぅっと吐き出された溜息がの髪を撫でた。


「だって、仕事は? 忙しいんじゃなかったの?」
「お前ね……俺を過労死させる気か?」
「え?」


ほら、と顎で示されたのはサイドテーブルに置いた目覚まし時計。
針は長針も短針も、殆ど真上を指している。


「え……いつの間にこんな時間……」


携帯電話を放り出したときはせいぜい8時頃だったはずなのに。
いささか呆然とした態でそう呟けば、藤真は綺麗な顔に似合わぬ男らしい笑みを浮かべて


「大方、熱でぼうっとして寝たり起きたりを繰り返してたんだろ?」


良くある事だと断定して、まだ納得の行かないの身体をベッドに横たえた。
大きな手がの額を覆う。


「……に、しても熱いな。ちゃんと薬飲んだのか?」
「ん……」


飲むには、飲んだ。
……が、如何せんの手元には漢方系の総合感冒薬しかなくて、ここまで症状が酷くなる
と効果は甚だ心許ない。


「解熱剤は? 痛み止めって、確か解熱効果もあっただろ」


時間が経ってるから痛み止め飲んでも大丈夫かなぁとか、薬飲む前に何か食べさせた方が良い
だろうなぁ、やっぱりなんて、藤真は返事も待たずにぶつぶつと呟きながら居間の方へと消え
てゆく。
勝手知ったるなんとやら、と言うやつだからも今更気にしない。

ただ、ぼんやりと。

やけに遠く聞こえる物音を聞きながら、ぼんやりと思う。


、あったぞ。ついでに林檎があったから切ってきた。何か腹に入れといたほうが良い
だろ………って、なんだよ?」
「……なんでもない」


少し笑って、差し出された皿から酷く不恰好な一切れを摘み上げる。
フォークくらい持ってきてくれればいいのにと思っても、言えば拗ねるのが分かっているので
何も言わずに。


「なんだよ、どーせ俺は不器用だよっ。悪かったな」
「そんなこと思ってないって。美味しいよ。ありがと」
「……おぅ」


そっぽを向いて無愛想を装う藤真の頬が赤いのは決しての目の錯覚じゃなくて。
クスクス笑うのも今の彼女の喉には辛いので、代わりに手を伸ばして藤真の腕にちょこんと触
れたら、「なんだよ」と言いつつも手を腕から外して握り返してくれた。


「……今日は一緒にいて?」


掠れた声で呟いた。


「なんだよ、淋しいのか?」
「うん」


揶揄うような声に反発するのではなくて素直に頷いたら、藤真は一瞬驚いた顔をしたけれど、
すぐに空いてる方の手をの頭に伸ばしてぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。


「ばーか。こんな弱ってるお前置いてどこに行けって?」
「……ありがと」


大好き、と呟いた声は布団に吸い込まれてしまったけれど、ぎゅっと握られた手に言わなくて
も伝わったのかと思えた。


熱でぼんやりした頭で、ただ思うことは。







「一緒に居てね」







ただ、それだけ。












=================
藤真は不器用で男らしくて面倒見が(意外に)良くて照れ屋。