カツ、カツ、カツ…
昼でも両脇の壁に日の光を遮られ、じめじめと薄暗い路地は夜ともなれば尚更、息
苦しいほどにその闇の色合いを濃くし、数十メートルごとに辛うじて燈る街灯の明
かりが末期の叫びのように震えている。
カツ、カツ、カツ…
そこを、一人の女が歩いている。
石畳に高い踵が触れる度、こんな夜に似合わぬ澄んだ音を響かせている。
右肩に薔薇十字をあしらった黒のコートが歩くごとにひらひらと優雅に踊る。
カツ、カツ、カツ…
他に人影はない。
時刻は深夜よりも更に深い。
カツン…
女の足が止まった。
「……いい加減出てきたら如何なの、ティキ・ミック」
決して大きな声ではない。
それでも、この静寂の中では充分だったらしい。
闇の中からまた別の闇がするりと形を変えた。
「バレてた?」
ぺろりと舌を出す。その明るい表情は背景に全くそぐわないにも拘らず、奇妙に溶
け込んでいて。
「呼び出しておいてバレたも何もないでしょう。…何の用?」
折角気持ち良く寝てたのに。
頬に掛かる艶やかな黒髪を払い除け、女は不満を口にする。
けれどその瞳は冷めていて、本当に不満に思っているのかは疑問だ。
「相変わらずつれないな、」
「用がないなら帰るわよ」
女に睨まれ、男―――ティキは軽く肩を竦める。
「そろそろ千年公が本腰入れようかってときに、俺の愛しい想い人はいつまでおま
まごとを続けるつもりなのかと思ってね」
「私の自由よ」
女の回答はにべもない。
100年経っても変わらぬ愛想の無さが愛しいなどと、口にしたらこの女は信じるだ
ろうか? おそらく信じるだろう。形の良い眉宇を顰め「変な嗜好ね」とでも
言って。
そういう女だ。
「それに、おままごとのつもりはないわ。私は本気なの」
「おいおい、冗談だろ?」
「何故?」
「ノア一族のお前が、本気で人間に肩入れするって?」
「あら」
クスッ。
初めて女の顔に笑みが浮かんだ。
途端に人形のような冷たさが形を潜め、代わりに稚気が女を彩る。
「光栄ね。私を『家族』の中に入れてくれるというわけ? 半分人間の血を引いて
いる私を?」
「ぴったりだと思わないか?」
いつの間に間を詰めたのか。
突然至近距離から目を覗き込まれたというのに驚きもせず、ティキはにやりと笑う。
「何が?」
「黒と白の両方を抱える俺と、人間とノアの混血のお前っていう組み合わせがさ」
白い手袋を外した指が、女の白い顎を捉えてくいっと上向かせた。
重なる唇。
女は抵抗しなかった。
ただ、冷めた瞳で目の前の男を眺めていた。
「……血の味がする」
「………ムードがないねぇ」
唇が離れた途端顰められた眉に、ティキは苦笑うしかない。
「また誰かを殺したのね」
「さあね。気のせいだろ?」
実際、彼が直接手を下したわけではないのだから、彼の唇に血臭があるはずもない。
それでもが気付いたのは彼女が人ならぬ一族の人間だからだ。
なのに女はティキを睨む。
「私の仲間よ、ティキ」
「よせよ。お前の仲間はノアで、家族もノアだけだろ」
「だから、半分は人間だって言ってるじゃない」
「……なんでそんなに人間がいいんだ?」
お手上げ、と実際に両手を上げて見せればはクスクスと笑って。
「貴方にだけは言われたくないわね、ティキ・ミック」
「のは度を越してるからな」
「アクマは私の趣味じゃないの。可愛くないわ」
「ま、そりゃ同感」
「エクソシストの坊やたちは可愛いわ」
「……まさか、それが理由か?」
「いけない?」
「いけないっつーか、なんつーか…ねぇ?」
たかがそれだけの理由で一族を裏切るのかと問い詰めることは簡単だが。
そもそも好き勝手に生きるのが唯一の掟のような自分たちであるが故に、それも的
外れで野暮なことに思えてくる。
ましてやその一族からさえ半分外れた彼女であれば尚更に。
結局、
「ほどほどで戻ってこいよ」
ティキが負けるのだ。いつも。
思い起こせば、彼がこの女に勝てたことなど一度もなかった。
「気が向けばね」
応える女は既に背を向けている。
こんなにも闇が濃いというのに、不思議とその後姿は闇に同化することなく。
ここへ現れたときと同様に涼やかな靴音を石畳に響かせて、女は去ってゆく。
やがてその足音すら聞こえなくなるまでその背を見送っていた男は、シルクハット
を外してくしゃりと髪を掻き揚げ。
音もなく闇へと溶け込んでいった。
後にはただ、濃密な闇の気配が残るのみ。
fin.
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真夜中の逢瀬。